23年3月のモンテコラム 「子ども主体」というけれど…⁈

★2023年3月1日★

「子ども主体」というけれど…⁈

最近の教育は「主体性を育む」「子ども主体」という考え方が重視されるようになってきましたね。
でも、「主体性」ってなんなのでしょうか?
子どもに自己教育力があるのなら、好き勝手にさせておけば「主体性」は育まれるものなのでしょうか?
今回は「主体性」についてお話します。

広辞苑では「主体性」について「主体となって働くこと。対象に対して働きを及ぼすこと。自発的能動性。実践的であること。」と定義されています。
そして「主体的」は「ある活動や思考などをなす時、その主体となって働きかけるさま。他のものによって導かれるのではなく、自己の純粋な立場において行うさま。能動的。」と定義されています。

自分の意志で活動や考えを選び、自分の意志で判断、実行していくことが「主体性」ということになりますね。

そして、変化が激しい時代を生き抜く力という観点から、ここ数年は子どもの「主体性」を育む教育が重視されるようになってきたのだと思います。

「子どもは大人に教えられて成長するのではなく、自ら環境を吸収して成長していく」というのがモンテッソーリ教育の考え方です。
それはつまり、子どもには「主体性」は備わっているとも言い換えられるのではないでしょうか。それが「自己教育力」です。

大人の役割は、目の前の「この子」に適した環境を作ること。
環境さえ整っていれば、自発的に活動して「主体的」に学んでいくことができます。

「好き勝手に遊ばせておけばいい」といったいい加減な姿勢では、主体性を育むことにはなりません。

繰り返しになりますが、大人がすべきことは「教え込む」ことではありません。
「環境」を整えることです。

環境づくりの一環で、私が大切にしているのは「失敗」しやすい環境であることです。

どんなことも、いきなりできるようになる訳ではありません。
プロセスを楽しむ幼児期は、本来うまくいかない段階も楽しんでいます。
そして、できるようになりたくて、何度も何度も夢中になって繰り返す姿が「集中現象」です。


でも、
大人が思う「成功」に導くために、手出し口出ししてしまうとどうなると思いますか?

うまくできないこと=ダメなこと
失敗=悪いこと

そんな思考に陥って、自分ではできないと思い込んでしまうことは容易に想像できるのではないでしょうか。


例えば、お水を注ぐ練習している子は、
当然うまく注げずにこぼす段階があります。

こぼすから・・・
と、手出し口出ししていては、いつまでも注げるようになりません。

近くにスポンジや布巾を用意して、
「こぼしたらこれで拭けばいいのよ」
とやって見せてあげれば、多くの場合喜んで自分で拭いてくれます。

もし、自分で拭く気がないのであれば、
自分で対処したくなるにはどうしたらよいかを考えるのが大人の役割です。

できることは、自分で対処する。
それは、社会性の土台にもなります。

モンテッソーリ教育では、活動の主役は子どもです。
自分で選んだ活動(おしごと)は、その子がやり切ったと感じるまでとことん取り組むことができます。
ですから、お教室内では「貸して!どうぞ!」という文化はありません。

お友だちがやっている活動に興味を持っても、
お友だちが終わるまで待つのがお約束です。

そうやって、自分の活動に最後まで責任を持って取り組みながら「主体性」を育んでいきます。
でもこれは、整えられた「お教室」という環境の中でのお話です。

一方、日本の文化は「貸して!」と言われたら「どうぞ」をするのが一般的です。
公共の場では、ときに「貸して!どうぞ」が求められることもありますよね。

モンテッソーリ教育の環境で育ったお子さまに対して、
公園の遊具で遊んでいるときなどに「貸して!」と言われた時の対応に悩む方は多いように感じます。

こんなとき、読者の皆さまはどう考えますか?

私自身は、公共の場で「貸して」と言われたら、
「どうぞ」と譲ることも大切であることを事前にお子さまに伝えておけばよいのではないかなと思っています。
ルールが場所によって異なっていても、
そこに一貫性があればお子さまも理解ができるようになるものです。

その上で、「貸して」と言われたときにどうしたらよいのか・・・
「嫌だ」という気持ちも、尊重しながら
社会のルールをじっくりお伝えしていけるとよいのではないでしょうか。