24年5月のモンテコラム「自由と規律はコインの裏と表」

★2024年5月1日★

自由と規律はコインの裏と表

モンテッソーリ教育というと「自由」というキーワードが浮かぶ方は少なくないと思います。
では、子どもの「自由」とは何でしょうか?
好き勝手にさせること(放任)と混同してはいないでしょうか?
今回は、モンテッソーリ教育における「自由」についてお話します。

モンテッソーリ教育における「自由」とは、
子どもがもともと持っている自己教育力を引き出すための自由(freedom)を言います。これは、周りと争ったり闘ったりしながら掴み取るような自由(liberty)とも違います。

何をやるかを選ぶ「自由」

どこでやるかを決める「自由」

いつまでやるかを決める「自由」

ただし、これらは
自己教育力が発揮できるように整えられた環境でこそ
力を発揮できるとも言えます。


例えば、公園に遊びに行って
「チャイムが鳴ったら帰ろうね!」
と「約束」をしていたとします。

チャイムが鳴ったのに
「あの滑り台もやりたかったから、まだ遊んでいたい!」
という場合、
遊び続けることは「自由」を尊重することと言えるでしょうか?

仮に、これが「自由」だとしたら
何のために「約束」をしたのでしょうか?

「約束」は守るものだ
ということを学ぶ機会を奪っただけではないでしょうか。

私たち人間は、他者と共存して生きています。
様々な文化や価値観を持つ人たちと、同じ地球上で暮らしています。

ですから、互いに尊重し合うという前提の上でないと
「自由」は成立しません。

私たちは、他人を怒らせたり傷つけたりする子どもの行動をすべて止めなければなりません。無作法で野蛮な行為も同様です。しかしそれ以外のすべての行為は—それぞれの振舞いがその目的が何であれ有益な目的を持っていて、上に述べた形式をそなえていれば—許されるだけでなく、教師はそれを観察しなければなりません。これが本質をなす部分です。

マリア・モンテッソーリ著・中村勇訳/子どもの発見/財団法人才能開発教育研究財団日本モンテッソーリ教育総合研究所

・他人を怒らせたり傷つけたりしない
・無作法で野蛮な行為をしない
という「規律」が「自由」の前提にあるということです。


モンテッソーリ教育の土台となる
「日常生活の練習」と呼ばれる分野において、
「マナー」や「他者への配慮」は重要な「おしごと」です。

美しい挨拶ができるのは、
周りに素敵な見本がいるからこそです。

誰かのために・・・と行動できるのは、
周りの人たちに大切にされているからこそです。


ですから、
もし「規律」が乱れていると感じた場合は、
まず自分自身の立ち居振る舞いから振り返ってみてもよいかもしれません。

「なぜ、そうなるのか?」
じっくり観察して考えることが大切です。

モンテッソーリは、科学者という立場に対して「テクニック」と「精神」という視点で考察しています。
そして、教師には「科学者の精神」で子どもたちと向きあうことが求められています。

教師は科学的な訓練によって、自然現象の観察者としての能力だけでなく、好奇心も身につけているはずです。私たちの教育法における教師は、活動的である以上にずっと「忍耐強く」なければならないでしょう。そして教師の忍耐心は、科学体で強い好奇心ならびに自分が観察しようとしている自然の現象に対する敬意から生まれるでしょう。教師は、自分の観察者としての立場を理解し、自覚しなければなりません。
マリア・モンテッソーリ著・中村勇訳/子どもの発見/財団法人才能開発教育研究財団日本モンテッソーリ教育総合研究所

科学者として先駆者の英知を吸収し、それに基づいた行動をするための「テクニック」を習得することは非常に重要なことです。そこは、ぜひ専門家に任せていただきたい分野です。

保護者は専門家になる必要はありませんが、
この「科学者の精神」は、子育ての味方になってくれるかもしれません。


目の前の子どもの姿を「科学者の精神」で観察してみると、
その子の「興味・関心」や「困りごと」も見えてきます。

「興味・関心」に導かれる姿を「忍耐強く」見守ることは
あまり苦にならないと思います。

でも、「困りごと」を解消するペースは一人一人違います。

それに、
「できるようになること」だけを重視してしまうということは
うまくいかないプロセスを楽しむ「自由」を奪うことかもしれません。

急がば回れ

一見、ネガティブな状況の時にこそ
「忍耐強く」観察する「科学者の精神」を思い出していただきたいです。